罪という意識。

だらぁ〜ん


またもBossoさんのエントリーを受けて。もう文通状態ですね(違う)


私の幼い頭にはちょっと負担が大きすぎるんですけど…
あ、先に宣言しておきますが、Bossoさんの意見・考え方を否定するつもりは毛頭ありません。物の捉え方として色んな見方がある事を楽しんでいるだけですので、関係者各位、早まった行動を起こさないように。


「人が人を裁く」行為をどう受け止めるか。
これは何故裁くという行為が必要になるのか、って事から考えなければいけないんですよね。うん、社会性のある生き物がその属する集団に害する行為をした場合に必要となる。って事で良いのかな。人社会ではこれを「罪」と呼ぶわけですよね。
ここいら辺はBossoさんと同じですよね。あ、『他の動物社会では、日常的に行われていることで。それを“罪”だと認識することも、ましてや罰則が与えられることもありません。』の部分はちょっと疑問。
縄張りを意識する動物とかが、その争いの中で優劣を決めたりする時、負けた方に対して容赦ない仕打ちをするのはどうなんでしょう。ある意味、「罰」と取れないですか?いや、こんな事は枝葉末端な話だから関係なし(笑)
で、「罪」を犯した個体に「罪」の認識をさせるためと、社会的な規範遵守のために適切な「罰」をあたえなければいけない。と。ここに「裁く」必要性が生まれるんですよね。
しかし、こう考えると「裁き」は罰を与える為ではなく、適切(であろうと思われる)「罰」を選択する為にあるんではないでしょうか。


それはさておき、多分Bossoさんと私の一番の違いは、「罪」という概念をどう捉えるかなのでしょうね。
昨日のカインのしるしの話を例に出したのは失敗でしたが、私は基本的に無宗教です。洗礼は勿論、礼拝にも行った事がありません。もっと言ってしまえば「聖書?へっ、世界最古の空想物語?」とかひねくれてしまう人間です。こんなヤツだから有名なエピソードに穿った見方をするのは当然です。
昨日の話の中では、主に対して「あんたのやった事は罪人を二度と更生できない状態に追いやる事」だよと、嫌味を込めたかったのが半分と、「罪」の重さを決めるのは周りではなく自分自身なんじゃないかなぁと。じゃあ、犯した「罪」の重さに気が付かない人に対してはどうなんだって話になるんだけれど……どうなんでしょう。ごめんなさい、何だか典型的な性善説で語っているような気がしてきました。でも、ここでやってはいけないのが「感情」を引き合いに出す事だと思います。


『「人間的な感覚とは別な部分」っていうのは、人間ではない他の生物ではなくて、
人間より高次的な、神とか仏とか、そういうものに近い感覚、ってことですよね?』


ほぼそうですね。
神とか仏とかまでは言いすぎですが、裁きを下すその瞬間だけでも様々なしがらみを忘れないと、裁く人間が可愛そうすぎます。裁く人間はその「裁く」といった行為をする事で、ある意味「罪」を犯す事になるのではないでしょうか。いえ、これはそういった職業に就いている人を貶める様なつもりの発言ではありません。
人が人を裁く為には、相応の覚悟が必要になるのだと思います。例えそれが「死」に繋がらないモノでも。そしてその覚悟の中には様々な感情を切り捨てる事も入っているのではないかと、想像します。相相応しい判断をするために、切り捨てる為ではなく、集団の中の社会性を守る為に適切な罰を選択する為に。


と、まあ私は感情に基づかない判断基準が好ましいと思っているのですが、このへんはBossoさんと嗜好的に異なるところなんでしょうね。
あ〜、普段なんとなく思っているだけの事を書くのは難しく、疲れますね。
基本的には毎日ボォ〜っと暮らしているのでたまには良いのですが、普段は頭の中がゆるゆるしてるので、こういった文章を書くのはかなりのエネルギーが必要になるのです。


でも、誰かに日記を読んでもらっていると実感できる時でもありますね。(ちょっと嬉しい)